それはchamekanのブログから始まった

 えーまずは・
こちら
をお読みいただきたい。

 これ書いたchamekanはパソ通時代からの友人で、私がネット上で知り合った中で最も頭の切れる人のうちの一人だと思っている。だがこれには首をかしげざるをえず、私は彼のブログで反論をしている。

 だがあちらで引っ張りすぎるのも無理があるし、別にギャラリーの耳目を集めることが目的ではないので、手前のとこで続きを書くことにした。

chamekanは「本意がつたわらないのが、めんどうくさい」と書いているが、問題はその手前にあるんじゃなかろうか。

 物事は何でもそうだと思うのだが、「ある事象系の『あるべき様態』」と、「その事象系に属する『ある一事象』を、現在どのように処理すべきか」とは全く違う(勿論、完全に乖離してしまうことはなかろうが)。


chamekanの文章は、その二つがごちゃごちゃに語られてしまっているように見えるのだ。これが問題の根源。


 ↑これもう一度、虚心坦懐に省みて欲しい>chamekan
 この二つ、ついごっちゃに扱ってしまっていないかい? 


 前者に関してなら、確かにchamekanと私の意見はさほど遠くない形で簡単に一致を見るだろう。だが後者を含めての話だと、結構難しいものがありそうな気がする。


 法の下の平等を覆すってのは、そんなに簡単な話じゃない。というか、簡単な話にしてはいけない。


 たとえばsiwaさんは、北関東の医師事情に鑑みれば、大学側の選択もやむなき範囲では、と書かれている。これは一つの見識だと思う。

 が、私はこれにも与しない。siwaさんの(そしておそらくは群馬大の)立場としては、「法の下の平等」と「一人の若者が医師への道のとば口に立つのが一年遅れる」ということを天秤にかけ、後者が重いとみなしているわけだ。


 対して私は、圧倒的に前者が重いと見る。これは程度問題なので線引きは難しいが、

  1. 「一人の若者が医師への道のとば口に、永久に立てなくなる」
  2. 「十人の若者が医師への道のとば口に立つのが一年遅れる」

 といったことなら、先の前者側を持ってもいい気がしている。

 しかし今回のケースでは、結果的に代わりに入った学生が医師への道のとば口に立つのが一年遅れたとして、それが重大な社会的損失となる(あるいはその受験生に対する重大な人権侵害が発生する)ほどのこととはどうしても思えない。

 この辺に「たかが群馬大レベルでおばちゃんに蹴落とされたレベルの受験生」という要素が関わってくるのだ。


 「建前」というものが実は決してそう簡単にないがしろにしてよいものではないのと同じように、「法の下の平等」というものも、そんなに簡単に手放すもんじゃない。


 それが「建前」と同じように、現実社会では極めてたやすく恣意的に曲げられるものだとしても、いやそれだからこそ尚更、簡単に手放すことを潔しとすべきではないのである。

(なんか民主党あたりから立候補しそうな勢いだな、我ながら(^^; )


 あと、ここまで厳しく言うのはちょっとやりすぎかなという気もするが、他ならぬchamekanほどの人だから、あえて言ってみることにする。

 最初のchamekanの文章には、アンフェアな記述がある。こういうのには敏感(過敏とも言うか?)にならざるを得ない性分なんでね。


 「いや、全部アンフェアですよ。私の主観ですから。そもそも完全にフェアな立場で文章なんか書けるんですか?」

 という、程度の低いはぐらかしは、きっとchamekanはしないと信じている。


 今夜はここまで。「アンフェアな記述」については後日書かせてもらいます。